令和の苦言愚言(12)【読書ノート】令和版 公共事業が日本を救う 「コロナ禍」を乗り越えるために(藤井聡・著)
安倍政権は、民主党政権以上に公共事業を減らした政権です。
それが長期にわたっているからさらによろしくない。
東日本大震災(発生は民主党政権下ですが)の復興も、その後度重なる災害(大雨、台風、地震など)を目の当たりにしても、まったくと言っていいほど強靭化を進めようとしない。
それだけでも国民を見殺しにしているといわれても仕方のない政権です。
このコロナ世界恐慌で第1次補正、第2次補正で総額58兆円の真水の財政出動=国債発行(資金繰り支援11兆円と10兆円の予備費があるので支出総額は36兆円強?)をして、当初たった9兆円の予定だった国債発行を大幅に上回る「財政赤字」となりましたが、財政赤字とは国民への貨幣供給であることが10万円一律給付で明らかになったように、金利も上がらないしインフレにもならないことが白日の下にさらされます。
それでもなお、消費税減税反対、今回の貨幣発行を将来の増税で国民から取り上げる、そんな主張を繰り広げようとしている「国民の敵」なのか「単に頭が悪い人」なのか、よくわからない時代遅れの経済学者たちがいます。
このような人たちを駆逐しましょう。
本書で、大変印象に残ったフレーズ(前々からそう感じていたこと)がありましたので、少し長いですが引用します。
「人」が死ぬことを防ぐ「コンクリート」は不要なのか(2011.3.11)・・・この記事はつまり、もう二度と、これと同じ過ちを繰り返してはならぬ、という筆者なりの決意の表明であった。ただしこうした思いは、多くの公共事業関係者たちが共通して抱いた感覚であったのではないかと思う。なぜなら、公共事業関係の技術者ならば災害が起こった時、あの堤防がもう少し高ければ、あの建物にきちんと免震対策をしておけば、あの橋ゲタにきちんとした耐震補強を施していれば――といった思いが必ず脳裏をよぎるものだからだ。だから彼らは、地震や津波で人々がなくなっている様を見るにつけ、犠牲者を「見捨てた」ような罪悪感に苛まれるのである。
ここが公共事業の技術者とそうでない人との決定的な違いなのではないかと思う。
技術者達は、「救う術を知っている」がゆえに、災害で亡くなった方を目にすると、さながら「不作為の殺人に荷担した」かのような気分になってしまう。つまり、彼らにとっては、地震や津波による死の多くは、かなりの程度において「人災」なのである。
一方で、一般の人々は(政治家やジャーナリスト、他分野の学者達も含めて)何も知らないが故に、地震や津波で死んだ人を見れば、「あぁ、天災で亡くなったのだ」と素直に認識してしまう。いうまでもなく、その災害を「天災」と見なすのか「人災」と見なすのかは、その災害を目にした後の振る舞いに決定的な影響を及ぼす。